維新黎明の露「天忠組」

※大塔では天誅組との関わりから、天誅組の「誅」の字を「忠」の字で表記しております。

天忠組動乱の絵

 尊皇攘夷の志を高らかに討幕の兵を挙げた天忠組は、今から140年あまり前の文久3年(1863年)8月20日に五條桜井寺より天辻峠へと隊を移し、この地の豪氏であった鶴屋治兵衛方を本陣として、幕府軍との壮絶な戦いを繰り広げました。
 明治維新に動く時代の先駆けとなりながらも、はかなき黎明の露と散った若き勤皇の志士たちの戦いを振り返ります。

討幕の志士

 江戸末期、諸外国からの圧力を受けて鎖国の解除に傾くなど、弱体化する幕府に不満をつのらせていた人びとは、やがて反幕府派となって次第に勢力を強めていました。
 こうした気運の中、孝明天皇が攘夷祈願のために大和行幸をされるとの報を受け、吉村寅太郎らを中心に尊皇攘夷の思想を強めていた浪士たちは、その先兵たらんとして文久3年8月13日に19歳の若き公家「中山忠光」を総帥とする義軍を起こし、ついに討幕運動を現実のものとし始めます。

吉村寅太郎と中山忠光の肖像画

吉村寅太郎                                                  中山忠光

 翌14日、ひそかに京都を出た39名の志士たちは、15日に大阪から海路を経て堺に上陸し、河内で多くの兵員と武器を調達。
 17日、観心寺に詣でたのち金剛山を越えた天忠組は、隊列を整えて一気に五条代官所に攻め込み、代官の鈴木源内を始め5人の役人を斬り、代官所を焼き払って桜井寺に本陣を構えました。
 そして、翌18日には幕府の影響を受けない五条御政府を開き、五条代官所の領地を天皇直轄の土地と定め、管内の村々に今秋の年貢半減を布告し、更なる義兵と武器、兵糧を集め始めました。

馬上の中山忠光を始め、武装蜂起した天忠組の志士たちのようすが描かれています。

悲運の天忠組

 250余年の幕藩政治に引導を渡すべく蜂起した革命の志士たちの悲劇は、運命の悪戯か、この同じ日に始まっていました。
  8月18日、京都では薩摩、会津など公武合体派により、尊皇攘夷派の三条実美ら七卿を長州に追放する政変が起こり、天忠組義挙のきっかけとなっていた天皇の大和行幸も中止されることが決定したのです。
  同日、実美の内命により都から使者が送られるものの、時すでに遅く、天忠組の代官所襲撃を制止することはできませんでした。都の状勢は公武合体派の勝利となり、天忠組は反乱軍として幕府軍に追われる事になったのでした。
  大義名分を失い、国を乱す賊軍と見なされることになった革命の志士たちは、それでも初志貫徹の意を固め、幕府追討軍との戦いに備えて本陣を桜井寺から撤収し、高野山、十津川の郷士を募って、態勢を固めるべく南へと下りました。
  十津川郷に入る難所として知られた天辻峠の住民は、鎧兜に槍や刀で武装し、勇ましく太鼓を打ち鳴らしながらやって来た天忠組に大いに驚き、本陣とする適地を求めていると言う一行に「十八町下ったらええとこある」と言って、いったんは天忠組を阪本集落へとやり過ごしました。
  しかし、すり鉢の底のような阪本よりも、天然の要塞然とした天辻峠の地形の利を生かしたいと、天忠組は翌日21日天辻峠に戻り、豪商として栄えていた鶴屋治兵衛宅を借り受け本陣としたのでした。

天辻峠本陣

吉野川水系と新宮川水系の分水嶺となる天辻峠は、天然の要塞ともなりえる急峻な地形でありながら、当時はここより南への物資の中継地として街道一の賑わいがありました。また、大塔宮との歴史が語り継がれるように、地域柄勤皇の志を持つ人々も多く、天忠組が幕府軍を迎え撃つための本陣を置くには、うってつけの場所と考えられたようです。
  本陣が置かれたのは、当時天辻の資産家として知られていた鶴屋治兵衛の家でした。
  「阪本の水がさかさに流れても鶴屋のしんしょうはなくならない」と言われるほどの財産家だった治兵衛は、天忠組の本陣として快く自家を提供したと伝えられます。
  こうして天辻峠に本陣を置いた天忠組は、近隣の村々より郷士を集め、一時は千名を越える勢力を得ることになりました。
  そして26日、諸藩に追討令が出されている中、敵の出鼻をくじくべく高取城を攻めますが、この戦いにおいて惨敗したうえ、総裁の一人吉村寅太郎が味方の弾で重傷を負うことになってしまいます。
  さらに各地でも追討軍との戦いに敗れ、本隊を十津川に後退させつつあった9月14日、30余人が残るのみとなっていた天辻峠の陣は、紀州勢、藤堂勢をはじめとする追討軍数千名の猛攻を受け、ついに放棄するに至るのでした。

天忠組の潰滅

北からの攻撃を受けて南に敗走する天忠組にとって、尊王の志に富む十津川郷士は最後の同志であり、その地は唯一最後の陣と望まれましたが、天忠組を「朝廷とは関係のない乱族」とする布令が出されたことなどを受け、十津川郷士もやむなく離反することになります。
  こうして天忠組は十津川郷に陣を置くことを断念せざるを得なくなったことから、中山忠光とその親衛隊ほか、小隊、または数名ずつとなって四散することにしました。
  首領中山忠光とその親衛隊は、大峯山脈を越える苦難に満ちた数日間の迷走後、北山郷に出て川沿いを北上し、24日には伯母谷を越えて敵軍彦根勢が固める鷲家口へと至ります。
  ここで6名の決死隊が彦根藩本陣の宝泉寺に突撃し、そのすきに忠光らの敵中突破を成功させましたが、決死隊はここで壮烈な最期を遂げたのでした。
  鷲家口を脱出した忠光は何とかその地を逃れ長州に逃亡しますが、同じく脱出した同志や他の義兵はそれぞれが各地で討たれほか、次々と幕府軍に捕まり、翌年に京都で全員が処刑されました。
  長州に逃れていた中山忠光もまた、元治元年11月に暗殺されることになり、天忠組の義兵全員が維新黎明の露と消えたのでした。

されど歴史は動いた

 享年わずか20歳の中山忠光をはじめ、平均年齢25歳の若き勤皇の志士たちの戦いは、そのわずか5年後に訪れる明治維新を思えば、結果的には時期尚早であり、無謀とも言える行動だったのかも知れません。
 しかし、天忠組の若き志士たちの純粋な思いと悲しい結末があったからこそ、世の人々の心が刺激され、時代も大きく動き始めたのでしょう。
 天忠組の変が、幕末動乱の諸事件の中で今でも大きく注目され続けていることを、無念に散った彼らは知っているでしょうか。維新胎動、今を遡る140数年前、まさにこの地で歴史が大きく変わろうとしていたのです。

地域住民の驚きよう

 町を遠く離れた天辻峠で、平穏な日常を過ごしていた当時の村人にとって、突如現れた武装集団天忠組への恐れ、驚嘆は大変なものであったと思われます。
「大塔村史」に記録された「天忠組聞書」によれば、「鎧兜をつけた天忠組の持つ槍の穂先が光り、怖くて外に出られなかった」「天忠組はこわい。火をつけたりブッタギルというので女子どもは戸をたてて隠れていた」「村人は簾の不動祠より奥に隠れた。残った老婆が死を覚悟して、よそへ行かせてくれというと、吉村寅太郎は居ってくれたらええ、どづきもたたきもせんと言った」など、義軍を好意的に迎えたと言うよりは、命に関わる危険を感じていたようすが現れています。
 また、近郷はもとより北山郷に至るまで、吉野郡一帯から人足をはじめ食料、金銭、兵器、馬などが集められたほか、一時は千名を越えたという義軍の宿泊や食事などのまかないに、山村の多くの人たちが駆り出されました。天辻本陣として家屋を提供した豪商鶴屋治兵衛は、「義侠心が厚く、率先して天忠組への協力を惜しまなかった」「本陣陥落時には屋敷が敵に資することの無いよう、火を放つことを承諾した」と言われています。ただ、馬の背状の尾根道で三方から攻撃を受け、天忠組に残されたただ一つの南への退路を確保し、ここで敵の追撃を断ち切るためには、屋敷に火を放たざるをえなかったとも想像されます。また、天忠組は最初の阪本進軍以来、当時阪本の有力者であった側垣磯右衛門からも大きな協力を得ており、側垣磯右衛門はこの忠孝により、中山忠光から苗字帯刀と金百疋を賜る感謝状を受けています。天忠組敗走後も、村は追討軍の駐留や幕府の事情聴取でしばらく落ち着かない日々を送ったようですが、この事件による被害については後に事細かに調べられ、救済処置がとられたようです。

天辻維新歴史公園

 天忠組本陣となって焼失した鶴屋治兵衛宅跡地は、しばらくはそのままになっていたそうですが、この事件から40数年経って天辻小学校が建てられました。

 この小学校は明治38年10月に、地区の小学校1、2年生が阪本小学校に通学するのは困難との理由から、同小学校の分教所として設けられたのが始まりでした。 しかし、当時の天辻地区は奥吉野地域の物資中継地として栄えていたことから児童数も多く、1、2年生に限らず小学校児童が阪本まで通学するのは困難であったために学校独立の議が起こり、明治39年7月1日に、簾、天辻を学区として設立認可を受け、天辻小学校として創設されるに至ったものでした。 翌明治40年、当時4年間で卒業だった小学校は第1回卒業生13名を送り出しました。この頃、物資の中継地として栄えていた天辻には70~80戸の家が街道に立ち並び、宿屋や日用雑貨、食料品をまかなう店も数件ずつあり、小学校には100名近くが通っていたと言われます。

 しかし、ふもとの阪本にまで索道が通じたことや、天辻トンネルの開通によって自動車が村に入るようになって以後、天辻集落は次第に過疎が進むことになります。 そして、天辻小学校は昭和52年に休校となるまでに620名の卒業生を送り、同年、最期の在籍児童1名を阪本小学校へと移して、その歴史を休めることになりました。

昭和32年ごろの天辻小学校 生徒達の集合写真

昭和32年ごろの天辻小学校

 平成16年8月、天辻小学校の廃校処置を機に、同地には地域の歴史を振り返る「維新歴史公園」が整備されました。

 天忠組の動乱を含め、天辻峠で繰り広げられてきた出来事は、大塔町や奥吉野地域の歴史を振り返る折、それぞれが疾風のごとき激しさで胸を打ちます。

 この峠を南へ、北へと越えた人の数は、どれほどになるのでしょう。その数と同じだけの、さまざまな心がこの峠を越えたのです。

 天辻維新歴史公園に吹く風は、その記憶を呼び起こすかのように木々の枝を鳴らしています。大塔町に来られましたらぜひこの峠から、歴史を包む山並みを眺めてみてください。

天誅組本陣遺跡の碑や義烈鶴屋治兵衛翁碑がある天辻維新手歴史公園の写真

※ 天忠組については大塔郷土館の「歴史の蔵」で各種展示をご覧いただけます。

※ 本稿では「天誅組」の表記を「天忠組」としています。
また、「五條」は当時の一般的な表記にならい「五条」の字で表記しています。

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更新日:2019年01月07日