花火文化と鍵屋弥兵衛

大塔町篠原出身の花火師 鍵屋弥兵衛

歌川広重作 名所江戸百景両国花火の浮世絵

 花火大会でおなじみの「鍵屋」「玉屋」という掛け声は、江戸時代に両国川開きの大花火で納涼舟や座敷から飛び交った掛け声が伝えられているものです。「鍵屋」「玉屋」とは、江戸時代に両国川開きの大花火を支えた2件の花火屋の屋号で、元は江戸日本橋横山町の花火屋「鍵屋」が、六代目弥兵衛の代から両国川開きの大花火を支えていましたが、八代目鍵屋の時、番頭の清七にのれん分けで両国吉川町に「玉屋」を開かせたことで、2軒が互いに花火の技を競い合うようになったと言われています。花火の掛け声はこの時から使われ続けているのです。江戸の名物となった両国川開きの大花火は、現在全国各地で開催されている花火大会の発祥になった催しと言えますが、これを支えた「鍵屋」の初代弥兵衛という人物が、実は大塔町篠原の出身であったと伝えられています。弥兵衛は木地師一党の集落として栄えていた篠原(川瀬とも言いました)で三男坊として生まれたらしく、五條の火薬工場へと奉公に出ることになったようです。時代は今から350年以上昔の事で、徳川幕府では三代将軍家光の頃と思われます。

 この頃の五條新町付近には火薬製造所があったようで、ここで火薬扱いの技術を身に付けた弥兵衛は、吉野川の川原に多く生えている葦の茎に火薬や火薬球をつめ、手持ちの吹き出し花火を考案しました。「火の花」「花の火」「花火」と称して売り出したこの花火はたちまち評判となり、飛ぶように売れるようになったことから、弥兵衛は花火を売りつつ江戸に出て、万治2年(1659年)日本橋横山町に花火屋「鍵屋」を開いたと伝えられます。日本橋区史によると、同年「花火師鍵屋弥兵衛本丸御用達となる」とされており、弥兵衛は上京間もなく幕府御用達の花火師になっていたようですから、他の花火師に比べてその技術が高かったことが伺われます。

 花火自体は弥兵衛以前から江戸で流行し始めていたようで、花火についての古い記述としては、慶長18年(1613年)の駿府政治録に「花火唐人二の丸に於いて花火を立て大御所宰相少将御見物」と、書かれており、イギリス人ジョン・セーリスが中国人の手で家康たちを前に花火を披露したことを記録しているようです。これ以前にも天正17年(1589年)に伊達正宗が花火を楽しんだという記録や、ポルトガルの宣教師が花火を打上げて人々を驚かせたという話もあるようですが、いずれにせよ、それまでの戦乱の時代に鉄砲やのろしに使われてきた火薬が、泰平の時代を迎えたことで娯楽に使われるようになった表れと言えるでしょう。家康はもちろん、武器としての火薬の威力にも深い興味を持っていたことが知られており、出身地である三河の部下を集めて三河鉄砲隊を組織していました。幕府は火薬の取り締まりを厳しくし、家康の故郷である三河などが特別に火薬の製造と所持を認められていたようで、後に名物となった手筒花火につながる火薬技術発展の一因になったと言われます。弥兵衛が奉公したとされる五條の火薬工場も鉄砲火薬の製造所だったようですが、言い伝えでは遠州を経て江戸に出たとも言われていることから、五條から遠州または三河方面に通じる技術的な交流や火薬材料のやり取りがあったのかも知れません。弥兵衛が五條からはるか遠い江戸にまで上って花火屋を開業した点や、上京間もないはずの弥兵衛が早々に幕府御用達のお墨付きを得ていることからも、こうした交流、人脈が想像されます。また、家康は戦国の時代よりつちかわれてきた火薬の技術を保存育成する意味もあって、弥兵衛など一部の花火師を保護していたようでもあります。もしそうであったなら、弥兵衛の技術は戦国時代に発達した狼煙(のろし)などにも通じるものだったことでしょう。

江戸時代の花火作り

江戸時代の3人の職人による花火作りの絵
江戸時代の1人の職人が花火作りをしているイラスト

 弥兵衛が江戸に出た理由は想像の域を出ませんが、当時の江戸ではすでに花火遊びが非常に流行していたようで、家康の初見から程無い慶長20年(1615年)には「町中にて大花火拵売候儀かたく御法度」と、花火屋の営業に規制がかけられています。ただし、この規制は実際にはあまり厳守されていなかったようです。

 その後も「火事と喧嘩は江戸の華」と言われるように、江戸で花火による火事が多くなったせいか、慶安元年(1648年)には「町中にて鼠火りうせい(流星)その外花火の類仕間敷事但川口にては格別の事」と、町中における花火の禁令が出ており、隅田川(川口)だけでは許されていました。初代弥兵衛が江戸に鍵屋を開く11年前の事です。
  万治2年(1659年)に弥兵衛が鍵屋を開いてからも、花火遊びはさらに広まったようで、火事の主な原因として大きな問題になっていました。寛文5年(1665年)には「町中にて花火拵り商売堅く仕間敷候、勿論こしらへ置候花火有之共町中にて一切立て申間敷候事」と、さらに厳しく町中での花火や花火商が禁止されています。
  こうした規制を受けつつも、正徳元年(1711年)には隅田川で鍵屋が花火を打ち上げたらしく、将軍家宣の命で鍵屋が流星を打ち上げたと記録が残されていますが、両国川開きの大花火が開かれるようになったのはもう少し後のことでした。
  享保17年(1732年)、大飢饉の影響か、江戸でコレラが流行し大勢の死者が出た事から、慰霊、悪疫退散のために両国川下で水神祭が催され、同時に隅田川両岸の水茶屋でも5月28日に川施餓鬼を催し、死者の追善供養が行われました。この事にちなみ、翌年の享保18年には5月28日に両国川開きが行われ、8月28日までの3ヶ月間、納涼舟の舟遊びと共に、毎夜さまざまな花火が六代目鍵屋弥兵衛によって打ち上げられるようになりました。当時、一晩に打ち上げられた花火の数は、仕掛け、打ち上げ合わせて20発程度だったようですが、元より花火が大好きな江戸の事、花火の規模は以来徐々に大きくなっていく事になります。
  両国川開きの大花火の盛況が一段と盛り上がったのは、やはり前述のように鍵屋と玉屋が互いに技を競い合うようになってからだったようです。文化5年(1808年)、八代目鍵屋の優れた番頭であった清七は、のれん分けで両国吉川町に「玉屋」を開き、玉屋市兵衛を名乗りました。 両国橋をはさんで上流では玉屋が、下流では鍵屋が陣取り、納涼舟や水茶屋の客がこれにお金を払って花火を打ち上げさせたのです。「かぎやー」「たまやー」の掛け声は、どちらの花火屋の花火なのかを紹介する意味もあって、川面で叫ばれるようになりました。

鍵屋と稲荷信仰

こうして有名になった「鍵屋」「玉屋」の屋号ですが、これはもともと鍵屋が信仰していた稲荷に関係が有ると伝えられています。古川柳にも「花火屋は何れも稲荷の氏子なり」という一句が残されています。伏見稲荷などでもそうですが、稲荷の守りとして門前などに置かれる狐を見ると、左の狐が鍵をくわえ、右の狐が玉をくわえています。鍵屋、玉屋の屋号はこの狐がくわえた鍵と玉(宝珠)に由来するのです。同じような例では、現在も伏見稲荷の門前には「玉屋」さんと言う茶店が残っており、昔は「鍵玉屋」と言う茶屋もあったのだそうです。
  稲荷神の化身とも守り神とも伝えられる狐ですが、狐によっては巻物をくわえていたり稲穂をくわえている場合もありますが、こうした付属物の違う理由については、あまり定かにはなっていないようです。
  稲荷神は元来稲の豊作を祈願する神でしたが、山の神としての信仰や土地の守り神のような信仰とも関係があったようですので、花火師の弥兵衛は安全祈願に稲荷を信仰したのかも知れません。または、木地師の集落であった篠原の民俗、信仰にも関係したのかもしれませんが、鍵屋ら花火師が稲荷を信仰していたこと以外には確たる伝承はありません。ちなみに、弥兵衛の出身地である篠原地区周辺に稲荷を見てみると、木地師集落として栄えた舟の川郷地域では現在も数箇所に小さな稲荷が祭られています。また、過去に篠原の主要街道であった川瀬峠を越した天川村領にも稲荷の祠が点在してはいます。ただし、これらが弥兵衛の時代にまでさかのぼる古い起源を持った稲荷なのかどうかまではよくわかりません。
  新町の古い地図によると、弥兵衛が勤めた可能性が指摘される村松鉄砲火薬製造所の敷地内にも何らかの神を祭った祠があったように見受けられます。安全祈願、あるいは商売繁盛に信仰されていたものと考えられます。
  弥兵衛が江戸までに経由した道のりとして三河や遠州を上げましたが、弥兵衛がこうした地域で火薬技術の更なる研鑚を図った時期があったとすれば、この地域で有名な豊川稲荷にもきっと参拝したことでしょう。

現在に続く花火の伝統

二艘の船の上で花火を手に持っている男性2人とそれを船上で見ている人達のイラスト

 江戸の人々にとって夏の大きな楽しみとなった両国川開きの大花火ですが、鍵屋と玉屋の二件が競い合った時代は、実は短い期間でした。「一両が花火間もなき光かな」(其角)の句があるように、二件が競い合うことで加熱した花火大会では、納涼舟や水茶屋の川遊びに興じる武家や豪商の出費が大きくなった事から、天保13年(1842年)には幕府が鍵屋と玉屋に対し、巨額の打ち上げ花火や仕掛け花火を禁止しています。
  そして天保14年、玉屋は花火の製造過程での失火により、町並み半町ほどを焼いてしまう大火事を出してしまいます。この日は将軍家慶が日光への御社参される前日であった事から、御成り先までを騒がせたとして玉屋は江戸所払いの重い刑を受け、後に花火屋としての玉屋は断絶する事になるのでした。それでも、江戸の人々は玉屋の花火技術を惜しみ鍵屋だけとなった花火大会で、なおも「玉屋」と掛け声を上げ続けたのだそうです。
  「橋の上、玉屋、玉屋の声ばかり、なぜに鍵屋と言わぬ情(じょう=錠)なし」という歌があるように、玉屋を欠いた花火大会に、しばらくは江戸の人々も不満があったようです。
  幕末の動乱期に影響されたのか、安政元年の前後数年は両国川開きの大花火が行われなかったのですが、明治元年を迎え、しばらく途絶えていた両国川開きの大花火が再開されると、打ち上げ花火、仕掛け花火数十発程度の規模ながら、待ちに待った花火大会として大盛況になりました。
  明治4年、戸籍法の施行により、鍵屋は出身地の篠原にちなみ、姓を「篠原」と名乗り、篠原に残る縁者は鍵屋にちなんで「鍵谷」の姓を名乗るようになったと言われます。鍵屋はこの頃十代目弥兵衛の代となっており、十代目弥兵衛は苦心によって明治7年に現在のような真ん丸く開く打ち上げ花火の開発に成功しました。つまり、これ以前の打ち上げ花火は丸く開かなかったと言う事で、時代劇などで夏の風物描写に丸い花火を登場させると誤りという事になるのでした。
  こうした花火技術の向上と共に花火大会の規模はまた大きくなり始め、明治20年には仕掛け花火20本、打ち上げ花火100発の規模になっていました。そして、明治36年には十一代目の弥兵衛がマニラに渡り、たくさんの花火を一斉に打ち上げるスターマインの技術を持ち帰り、花火大会の演出に加えるようになりました。ただ、両国川の花火は座敷や納涼舟から楽しむことを原則としたため、現在各地で見られる花火大会ほどの規模ではなく、一つひとつの花火は小さくとも、変化と優美さを尊んで製作されるのが昔からの伝統だったそうです。
  十一代目弥兵衛は大正14年に亡くなり、弥之助氏が十二代目弥兵衛を襲名します。十二代目は昭和14年に大塔村役場に「花火で成功した先祖の供養をしたいので縁者を探してほしい」と申し入れ、これを受けて五條に出ていた縁者が代表として上京し、鍵屋を訪ねたようです。
  しかし、十二代目の時代は戦争の影響が大きく多難でした。昭和15年から終戦後の昭和22年まで、第二次世界大戦の影響で両国大花火は開かれなかったのです。それどころか、昭和16年には空襲の危険から花火の製造自体が全面的に禁止される事になりました。
  敗戦後の東京は悲惨な状況ではありましたが、昭和23年、両国川開きの大花火が久しぶりに復活すると、観客は70万人、警備の警官も3千人が動員される活況を呈しました。東京の人々にとって、花火は江戸っ子の魂の「復活ののろし」でもあったのでしょう。
  こうしてまたも盛況を取り戻した両国川開きの大花火でしたが、都市の発達は花火大会の実施を困難に至らしめ、昭和37年、交通事情の悪化が懸念されることから、両国川開きの花火大会はついに禁止される事になってしまうのでした。
  激動の時代を過ごした十二代目は昭和40年、長年血縁で守り続けてきた鍵屋ののれんを絶やさないために、同業の天野太道氏に鍵屋の伝統とのれんを託しました。鍵屋ののれんは十三代目から昭和51年に十四代目に、そして平成12年、現在の15代目に引き継がれ、鍵屋は現在も日本を代表する規模の江戸川区花火大会や浦安の大花火大会など、各地の花火大会を取り仕切るほか、芸術性の高い日本の花火を世界各地で打上げ続けています。

プラネタリウム番組「星空に届け弥兵衛の花火」

 平成12年、「大塔コスミックパーク星のくに」のプラネタリウム館で、上記弥兵衛の生涯を描いたプラネタリウム特別番組が制作、上映されました。
 内容はプラネタリウム番組とするために星空とからめた表現を取り入れたり、篠原に伝わるオオカミの伝説と狼煙(のろし)を関連付けたりと、若干の創作も交えていますが、東京の鍵屋さんや両国花火資料館などを訪ねて取材し、文献調査も加えることで得られた上記の研究結果を基本に構成しました。また機会があれば、リバイバル上映させていただく事があるかも知れません。

「星空にとどけ!弥兵衛の花火」の文字の下に花火と弥兵衛のイラスト
赤く黄色く色づいた木々と緑の木々の間を落ちていく弥兵衛の出身地の宮の滝の写真

弥兵衛の出身地篠原にある宮の滝は、彼が作った花火のように中段が宙に飛ぶ

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更新日:2019年01月21日