大塔町の民俗芸能

大塔町の芸能文化

 大塔町は、古来より交通不便な僻遠の地として独特の文化を伝承してきた山村地域であることから、文化的には各郷、各集落といった小規模な区域ごとに、特徴のある風習や文化を伝えてきています。
  こうした集落ごとに異なる民俗性は、各集落が急峻な山峡に隔てられて点在していることで、集落間の交流機会が少なかったことによるものと思われますが、あるいは各集落形成当時に定住した人びとの古郷からの慣習が、当地でも守られ影響してきた可能性が考えられるでしょう。
  ここでは奈良県の無形民俗文化財に指定された「篠原踊(しのはらおどり)」「惣谷狂言(そうたにきょうげん)」「阪本踊(さかもとおどり)」を中心に、大塔町の民俗芸能を紹介します。

篠原踊

 舟ノ川流域に点在する篠原、惣谷、中井傍示などの山深い地域の集落は、古くより「舟ノ川郷」と呼ばれる木地師の集落として、独自の文化や芸能を長く留めてきた地域です。
 その舟ノ川郷で最も古くに拓かれたとされる篠原には「篠原踊」と呼ばれる踊りが伝えられており、今も毎年1月25日の神事初めに天神社へ奉納されています。
篠原踊は、言い伝えによると「むかしオオカミなどの猛獣が多く出没して村人に害を与えたために、村中総出で氏神様に狼退治の成就を願う踊りを奉納したところ、願い叶って村の平和を取り戻せたことに由来する」と伝えられています。
男性は太鼓を打ちながら歌い踊り、女性はそれにあわせて扇を手に舞い踊る古式豊かな舞踊で、26曲が今にまで伝えられているそうですが、近年は「梅の古木踊」「宝踊」「世の中踊」の3曲のみを式三番として奉納しています。

「篠原踊」奉納の様子 紫色の着物を着た女性4人が踊っている周りに見物客や報道関係の人がカメラを回している写真

篠原踊とオオカミについて

 村の人々を困らせていたオオカミの中でも、特に大きな一頭のオオカミから受ける被害が大きかったことから、村人たちでこのオオカミを退治に出かけるのですが、なかなか探し出すことができずに皆が疲れてしまった時、突然このオオカミが現れて指揮者たる村の長をかみ殺してしまいました。
  以後もますます被害が続くことから、前述のように村中総出で氏神様に祈りを込めた踊りを奉納した結果、オオカミ退治が成就し、村に平和が戻ったことが篠原踊の由来であると伝えられる一方、昔の作法では踊りの前に次の口上を言ったとも伝わります。
  コトシハ シシモレル サルモレル キリハタモ ホウサクレ ウリガミサマニ ナニカ オロリヲ ケンリマショウ タカラオロリ (今年はししも出ず、猿も出ず、切畑も豊作で、氏神様に何か踊りを献じましょう。宝踊り)
  栗栖健氏は著書「日本人とオオカミ」の中で、十津川村高滝神社や玉置神社がオオカミを神の使いとしていた形跡を取り上げられ、篠原踊のこの口上も、オオカミのおかげでイノシシや猿の食害から作物が守られたことに対する感謝の言葉ではなかったかと推察されています。
  近世より絶滅に向かった日本オオカミは、自然の食物連鎖の頂点にあって、他の動物たちの数が増えすぎないよう調節する役割を担っていましたが、数の減少とともに目にする機会も少なくなり、やがて恐ろしい猛獣としてのイメージだけが残り、悪者のように扱われるようになりました。しかし、オオカミは耕地の少ない山村では貴重な農作物を荒らす動物たちを退治してくれる、まさに守り神でもあったのです。
  ただ、前記の口上はかなり以前から伝承されていないことから、途絶えた理由や実際の奏上場面などについては全くわからなくなっています。
  昔は旧暦7月15日、16日の盆踊りにも篠原踊は踊られていたそうですので、お盆や秋祭りなどの収穫を祝う時期に述べられていた口上だったのかも知れません。

袴を着た男性が太鼓を打ちその後方で紫色の着物を着た女性が踊る写真
鳥居の前で袴を着た男性が太鼓を打ちその後方で紫色の着物を着た女性が踊る写真

惣谷狂言

 舟ノ川郷にあって篠原の下流にあたる惣谷においても、同じく1月25日に天神社で惣谷狂言が奉納されますが、もとは篠原踊りとほぼ同様の踊りと共に上演されていたそうです。
  また篠原においても、昔は踊りの合間に狂言や浪曲、漫才などを行なっていたと伝えられていますが、これは篠原の集落が先に誕生し、以後その分村として惣谷が誕生したとされることから、両集落で共通の風習が伝えられてきたものと見られます。
  現在は1月25日にのみ奉納されているこれらの芸能は、以前、篠原では天神社に奉納した日の夜にも万福寺において区民総出で踊りが楽しまれたほか、お盆の夜にも踊られていたそうですが、惣谷においても同様に、天神社への奉納後、夜に円満寺において踊りや狂言がにぎやかに楽しまれたと言われます。
  かつての舟ノ川は、生産物の出荷や物資の買い入れ等で他の地域に出ることはあっても、日常的にはほぼ閉ざされた隠田集落的地域であったことから、こうした芸能文化は人々の娯楽として長く楽しまれてきました。
  しかし、近代の文明が山村の深部にも至るようになるにつれ、若者の関心や娯楽はこうした民俗芸能から徐々に離れることになり、明治末ごろからは年々衰えることになりました。
  惣谷狂言も明治40年ごろより演じられなくなり、大正4年に天皇即位の大展に伴う奉祝行事で演じられて以降長く途絶えていましたが、前々大塔村史発刊にからみ狂言の保存が提唱されたことを受け、大展時上演の中心人物で狂言伝承の家系であった辻本可也氏が、記録のない状態から苦心の末、自身の記憶を懸命にたどり、台本を蘇えらせました。
  こうして昭和32年には惣谷狂言保存会が設立され、8曲が復活して今日に至り、現在は毎年1月25日にこの8曲のうちの2曲が選ばれ、演じられています。
  惣谷でも行なわれていた篠原踊と同様の舞踊は、戦争が激化した昭和15年以降途絶えることになり、篠原踊も明治以降は衰退していたそうですが、貴重な民俗芸能であることから昭和30年12月26日には篠原踊が、昭和34年7月23日には惣谷狂言が、奈良県指定無形民俗文化財に登録されました。

惣谷狂言を舞台で演じている男性2人の写真
惣谷狂言を舞台で演じている3人の男性の写真
狂言に使用する2つの面の写真

※ 毎年1月25日に神事始めの奉納に演じられている篠原踊、惣谷狂言は、同じ日の開催であることから近年は双方の奉納に立ち会えるよう、午前と午後にそれぞれが催されています。
 平成19年は10時ごろから惣谷狂言が、13時ごろから篠原踊が奉納され、年毎に順序が入れ替わります。(時間には神事等を含みます)

阪本踊り

 舟ノ川郷以外でも、阪本地区には村の窮地を身代わりとなって救った政吉に対する恩返しとして始められたという「政吉踊」と呼ばれる踊りが伝えられており、8月15日の盆踊りでは政吉踊の他たくさんの盆踊りと共に楽しまれています。 政吉踊には次のような話が伝えられています。

 「江戸時代に淡路から出稼ぎに来ていた文蔵という木挽きに村の娘たちが心を寄せたことから、村の若連中は嫉妬のあげくに昼寝をしていた文蔵を襲い、簀巻きにして天の川に浮かしては沈める水責めをしていたところ縄が切れ、文蔵を殺してしまうことになりました。このことは「小代阪本昼寝はできぬ 淡路文蔵が殺された」と、踊りの歌にも残されています。
 事件はやがて淡路の殿様の耳に入り、小代、阪本では16歳から60歳までの男全員が五條代官所に捕らえられ長期間に渡る厳しい取調べを受けることになりました。
 残された家族はこの事件の費用や稼ぎを失ったことによる生活費の捻出に苦慮することになり、村有の山の桧も売られたことが「小代阪本今切る桧淡路文蔵の妄念か」と歌われています。
阪本の中村屋という金持ちに育った政吉は侠気の者で、親と意見が合わず若い頃に家を飛び出していましたが、郷里の事件を知ってその罪を一身に引き受ようと考え村に戻りました。
 政吉は思い残すことなく生きてきたと身代わりを申し出て、自分の死後は盆踊りで弔ってほしいと遺言し、代官所に出頭し死刑に処せられました。
政吉の身代わりによって捕らえられていた村人は放免となり、村の危機は助けられ、以後その恩返しとして毎年4月27日と10月27日に、墓前で政吉踊りが踊られるようになりました。」

 阪本踊りはこの政吉踊りを含めた盆踊りの総称で、太鼓や扇をとるものもあり、やぐら太鼓を中心に輪踊りが演じられ、曲目には「なんちきどっこい」「大文字屋」「豊年」「やってきさ」「やっちょんまかせ」等があり、山村独特の風情が感じられる貴重な民俗芸能であることから、平成元年3月10日に奈良県指定無形民俗文化財となっています。

櫓を中心に輪になって踊っている人々の写真

その他の芸能

 集落としてはすでに廃された中峯には16個の浄瑠璃人形の頭が残されており、政吉踊りの由来に文蔵という木挽きが出稼ぎに来ていたように、以前淡路などからやってきていた人々によってもたらされたものではないかと言われています。
中峯では寛政の頃から盛んに人形芝居が行なわれるようになったといい、人形芝居を演じる舞台は民家の中に設けられていました。
 明治の末頃までは毎年お盆や正月に演じられ、周辺の村々からも多くの見物客が集まったと言われますが、大正になって人形遣いの伝承者は途絶えてしまったのだそうです。

人形芝居に使われた中峯の人形頭6つの写真

 天辻地区では天辻峠に天誅組の本陣が置かれ熾烈な戦いが繰り広げられたことから、この事件後間も無く、彼らの戦いを表現した「天誅踊」という踊りが踊られるようになりました。近年は過疎による踊り手の減少が継承を困難にしつつあります。

 このように、大塔町の各集落では豊かな芸能文化が長く伝えられてきました。これらは、山村の人々が共に助け合いながら楽しく生きていくための娯楽として、大切な催しであったと言えますが、明治以降、住民が外部の新しい文化に接する機会が増えるにつれて、次第に娯楽的役割が薄れるようになり、近年はいずれの民俗芸能も後継者の減少と高齢化が悩みとなっています。
 村出身者への呼びかけや次世代への伝承などで保存対策を講じていかなくては、将来への継承が困難な状況となってきました。

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五條市役所 大塔支所
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更新日:2019年01月07日