天誅組にまつわる人々

森田節斉

森田節斉のイラスト

明治維新の思想的リーダー。
 幕末維新期の儒学者森田節斉は、文化8年(1811)五條の医師文庵の子として生まれ、文政8年に京都に出て頼山陽に学びました。文政12年(1829)に江戸の昌平黌に入り、各地を歴遊したあと京都三条に塾を開いています。
 尊王攘夷や佐幕開国などで世論が騒然とするなかで起こった安政の大獄の際、吉田松陰はじめ彼の弟子や同志はその多くが処刑され、ついで起こった天誅組の変には彼の門人である乾十郎らが加わり、同じく多くの同志友人が斬られたのでした。
 節斉自身は明治維新の表舞台に出ることはありませんでしたが、思想面での指導者として多くの勤王志士に影響を与えています。

井沢宜庵

 医者として天誅組に参加した宜庵は五條の生まれです。天誅組敗戦のとき五條の津藩陣所に自首し、医師として従軍しただけという理由で一旦は釈放されますが、再逮捕され収容された京都六角獄舎で食事に毒を盛られて亡くなったとされます。その宜庵の碑が五條市役所近くの常楽院に建立されています。

乾十郎

 天誅組の五條代官所襲撃から桜井寺を本陣とする手はずを整えたのは五條出身の医者、乾十郎でした。4歳にして孟子を諳んじるほどの秀才で、森田節斎・梅田雲浜に学問を学びました。大坂に出て町医を開業した後再び五條に戻り、吉野川に放流する材木に課せられる材木税を不当として紀州藩に撤廃を談じ込み成功させたり、容認はされなかったものの吉野川の水を大和平野に疎通させて灌漑設備を整えようと上書したりしています。

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更新日:2019年01月07日