旧大塔村のあゆみ

大塔町(旧大塔村)の沿革

 大塔町(旧大塔村)地域に、いつのころから人が住み始めたのか明確ではありませんが、熊野川流域では先史時代の遺跡はほとんど発見されておらず、わずかに河口に近い新宮市や本宮町の遺跡で縄文中期から後期にかけての土器が出土しているだけで、十津川村より上流では先史時代の遺跡はまったく発見されていません。ただし、多雨で侵食の多い紀伊山地は、遺跡の保存に不利な環境であることも考慮しておく必要があります。
 平安期になると、天禄2年(971年)に高野山金剛峰寺が現在の野迫川村中津川付近と思われる地域の一角を買い取った文書が残されており、のちに吉野の金峯山寺が高野山金剛峰寺に宛て、中津川は金峯山寺の領地である、と主張した文書(1141年)でも、中津川は以前より遠津川郷内の地であり、先の文書は無効である、と金峯山寺が主張しています。
 このように、平安期には中津川にまで及ぶ遠津川郷が金峯山寺の支配下にあったことから推測すると、遠津川郷の形成は吉野方向から天川村、大塔町を越え、野迫川村領域に広がったと考えることができ、中津川より吉野に近い大塔町地域の開発はこれ以前より始まっていたものと推測されます。
 当時は現在の大塔町以南を遠津川郷と呼んでいたようで、遠津川郷の名称は後に十津川十八郷となり、さらに十二村荘、舟川荘ができ、現在の大塔町と野迫川村がこの両荘に含まれました。
 今日、十津川と言えば大塔町より南の十津川村を指しますが、これは近世になってからのことで、遠津川郷は平安・鎌倉期では大塔町、野迫川村を含む十津川上流地域を指していた呼称であったと考えられています。

十二村荘に含まれた地域

今西・平・弓手原・桧股・北俣・立利・池津川・紫園・中津川・上・中・柞原・今井・平川・中原・猿谷・簾・阪本・天ノ川辻・小代・殿野・辻堂・堂平・飛養曽・清水・引土・宇井・閉君・唐笠

舟川荘に含まれた地域

中峯・中井傍示・篠原・惣谷

うっそうとした森林におおわれていたこの地域にも鎌倉時代にはかなりの人口が入り、前述の集落が形成されて経済活動も始まっていたようで、南北朝から室町幕府のころ、殿野で土地の売買が行なわれていたことが西教寺の蔵する古文書によってうかがわれます。
 また、鎌倉幕府における北条氏の不臣から討幕の計画を立てられた後醍醐天皇は、第三皇子である護良親王の助けによって「建武の中興」を成し遂げられましたが、護良親王は鎌倉幕府の追跡を逃れて笠置山、赤坂城等を経て、少数の従士とともに熊野に落ちられる道中、当地にしばらくの期間身を置かれたと伝わります。
 山伏姿に身をやつし苦難の末当地に到った親王は、この地方の豪族であった竹原八朗、戸野兵衛らの助けを得てここから全国に令旨を発したことで、建武中興の大業成就を叶えたとされています。
 このことから、当時この地域には竹原、戸野ら、力を持った一族がいたことがわかりますが、広い耕作地を持つ地域ならまだしも、人里を遠く離れ、道も未発達な秘境の地であった当時、すでにこうした一族が存在したことには何らかの理由があったものと想像されます。
 周辺の十津川村や野迫川村等、周辺に源平の争乱に係る落人の伝承があることから、大塔町地域においても武将、一族が隠れ住んだことは想像されますが、太平記では山伏姿の大塔宮に戸野兵衛が語った言葉として「平維盛を我が先祖がかくまった」とあることから、あるいは源平の争乱以前よりこの地に居を構えていた一族がいたとも考えられます。
 これを示すものとして、鎌倉初期の平家物語では「吉野とつかはの勢ども馳集て云々」、保元物語には「吉野十津河のさし矢三町、遠矢八丁のものども云々」と、この地域から南都衆徒ととして精兵が集められたとする記述が見られることからも、保元の乱の時代には、この地域に弓の名手が多かったらしき様子がうかがわれ、また辺境でありながらも中央権力との連絡が取れる階層の一族であったことがわかります。

戸野兵衛の墓

戸野兵衛の墓の写真

近世、江戸時代に入ると、織田信長から大和の国を与えられた筒井順慶が郡山城を造り、大和の国にも平穏な時代が始まりました。
  順慶は信長に次いで豊臣秀吉に仕えて大和国主の地位を保ち、その後豊臣秀長が大和大納言として郡山城主となり、その後は増田長盛がこれに代わりました。
  長盛は入国早々秀吉の命によって、いわゆる太閤検地を大和全体に行い、検地奉行によって吉野郡中でも検地を始めました。
  検地は田畑の面積、土地の等級、収穫高、耕作をする人々を詳しく調べ、それによって年貢高とそれを差し出す責任者を決めたものですが、これにより農民の耕作権は安定するものの、身分的には固定され土地を離れることが禁じられるなど、封建支配の基礎となるものでした。
  検地の実施に当たり、大塔町の現在の大字に当たる各集落はそれぞれが独立した村として領主に取り仕切られ、土地に地番をふり、順に田畑や屋敷の程度、面積、生産額、耕作者を列記した検地帳によって一村当たりの年貢を総計した村高が算出され、管理されるようになりました。
  慶長8年(1603年)徳川家康が征夷大将軍となって、天下の土地、大名に対する支配権を獲得すると、将軍は全国を統轄し政治経済上重要な土地を幕府領(天領)としました。大塔の村々は江戸時代のはじめ、天領として幕府の直接支配下に置かれていました。
  領主は天和3年(1683年)までは各村によって支配関係が多少異なり、以後はまとめて管轄されるようになりますが、幕府の勘定奉行に属する旗本が代官を任命されていたようです。
  吉野郡は古くから十津川郷や宗川郷、賀名生郷などのように18の郷に分けられており、大塔の村々は十二村郷、舟ノ川郷に属し、十二村郷はさらに一郷組と野長瀬組に分かれていました。

十二村郷一郷組

阪本村・簾村・中原村・小代村

十二村郷野長瀬組

殿野村・猿谷村・辻堂村・閉君村・宇井村・堂平村・引土村・飛養曽村・清水村・唐笠村

舟ノ川郷

篠原村・中峯村・惣谷村・中井傍示村

  領主は年貢を確保するために農民の身分を固定し、刀・脇差・弓・槍・鉄砲などすべての武器の所持を禁止するなどきびしい統制を与え、土地の売買や質入、抵当などもきびしく制限することにより耕作地と農民の安定化を図りましたが、こうしたきびしい制限や統制も封建制度がゆるみ幕府や藩の動揺があらわになる江戸時代後期には次第に守られなくなりました。
  きびしい自然条件や急峻な地形による耕作効率の悪さから生活に困難をきたすことで、借金の抵当や売買によって土地を失い小作人になるものや村を出るものも現れた記録があり、田畑の少ない地域でもあることから生業は山仕事が中心となり、木材や樽丸、木材加工品を生産しこれらを運搬することが村の生活を支える大切な収入源となっていきます。
  山林に対する課税がいつのころから始まっていたか明らかではありませんが、文禄4年(1595年)の検地帳には現れず、延宝7年(1679年)の検地帳(篠原村・引土村・猿谷村・唐笠村)には「山手銀」として記載されていることから、このころから始まったものと考えられます。
  また、川を下される材木や山を越えて出荷される木材加工品は、それぞれの経路に設けられた口役改メ所(通称口役所)で徴税されました。
  やがて林業の興隆が進み、地域全体において木材や樽丸など林業加工物の生産が増加したことで、作業の手助けや運搬のために遠く瀬戸内海沿岸地域の人々が季節労働者として入村するようになりました。
  ところが、こうして山村地域から多くの木材製品が出荷される時代を迎えると、これを目当てに馬による運搬で駄賃稼ぎを企てるものが出て、五条の公儀馬借所との摩擦が起こったり、大塔地域の人たちから一種の通行税を取り立てることなどが起こり、訴訟が頻繁に発生するようにもなりました。
  舟ノ川流域は建武3年に後醍醐天皇から下賜せられ、諸職並びに惣木役御免状によって一切の納税を免除されていましたが、このように他郷の口役所を通過する場合はこの限りでないとされ、粉糾に至ることもありました。
  明治維新後、日本は近代社会への歩を進めて行くことになりますが、旧大塔村の成立までにはまだしばらくの年月が必要でした。
  奈良県は明治元年5月に設置され、7月には奈良府に改められますが、明治2年7月にはふたたび奈良県になるものの、当時は天領以外の領地をこれまで通り藩として大名の支配に任せており、明治3年2月には幕末時に五條代官所の支配下にあった村々は奈良県とは別に置かれた五條県の管轄下となり、大塔の村々は五條県に属すことになりました。
  明治4年11月、廃藩置県が実施されるに及んで大和を管轄する奈良県が成立し、大塔の村々はここで初めて奈良県の管轄下となりますが、村の仕組みは江戸時代のままで、明治4年の戸籍法の施行、翌5年の大区・小区制の実施により、村は地方行政区画としての性質を持つようになります。
  はじめ、大塔の村々は第十五大区第二十四小区の中に含まれ、明治7年の改正で第八大区十小区の中に編入されますが、明治9年4月に奈良県は廃止されて堺県に合併され、旧奈良県は五大区に分けられたことから、大塔の村々は改めて堺県の第五大区二小区に属することになりました。
  明治11年7月、群区町村編制法が施行され、大小区制をやめて府県郡区町村が置かれるようになり、堺県は一区九郡となり、大和は四郡役所部内に分けられます。奈良・三輪・御所・五條の郡役所のもと、各郡役所は数箇村ないし十数箇村を連合させて戸長役場を置いたことで、大塔各村は堺県宇智・吉野郡役所管内に属し、坂本村に第二連合役場が開庁され、これを扱うようになります。
  明治14年、堺県は廃止され、大和の全村は大阪府の管下に入ることになり、大塔の村々は大阪府宇智吉野郡役所管内の第十五および十八連合戸長役場に属しました。
  こうした経過をたどって明治20年11月には県民永年の要望であった奈良県の独立が認められ、翌21年4月に「市制」「町村制」が交付され、自治体としての大塔村が明治22年の4月1日に成立するに至り、ここに戸長に代わって初代村長として竹原喜平が選任され、助役・収入役など役場の機構も整備されることになります。
  以降、大塔村は、災害の多い厳しい自然環境にある山村ながらも、地域の発展と住民生活の向上を目指しつつ116年の長きに渡り村政を推進してきましたが、主幹産業であった林業の低迷や、都市中心社会の発展に影響を受け、昭和32年の猿谷ダム築造以降は人口が急激に減少することになりました。
  大塔村は過疎や著しい少子高齢化の進行と戦いつつ、なおも観光開発等に力を注ぎ発展を目指していましたが、近年に到って、国、地方の危機的な財政事情から全国的に推進された平成の市町村合併により、平成17年9月24日をもって116年の村政に幕を下ろし、西吉野村とともに五條市と合併する道を選びました。

この記事に関するお問い合わせ先

五條市役所 大塔支所
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更新日:2019年01月07日