五條の社寺仏閣・史跡

遠い昔の光景がよみがえってくるようです

五條地区

西吉野地区

大塔地区

五條地区

榮山寺(えいさんじ) 小島町

栄山寺の外観写真養老3(719)年、藤原武智麻呂が創建したとされ、その子の仲麻呂が八角堂を建立しました。吉野川を眼下に望む景勝地は、南朝の長慶天皇はじめ3代の行宮ともなりました。八角堂と梵鐘は国宝、八角堂内陣装飾画、本尊の薬師如来坐像などは重要文化財。

 

大澤寺(だいたくじ) 上之町・大澤町

大澤寺(だいたくじ)の外観写真約1300年前、修験道の祖・役小角(えんのおづぬ)が開いたと伝えます。瀬之堂のお薬師さんとして知られる本尊の薬師如来立像(秘仏)は平安時代の作で、県指定文化財。境内には目を洗うと眼病が治るという眼洗い池があります。秋は紅葉もみごとです。

 

櫻井寺(さくらいじ) 須恵1丁目

櫻井寺(さくらいじ)の外観写真天暦年間(947~957年)、桜井康成の創建と伝えます。江戸時代末の文久3(1863)年、五條代官所を襲撃した天誅組は、この寺に本陣を構えました。境内には、討ち取った代官の首を洗ったという手水鉢があります。また、赤根屋半七と笠屋三勝の比翼塚も。

 

金剛寺(こんごうじ) 野原西3丁目

金剛寺(こんごうじ)の外観写真承安年間(1171~1175年)、平重盛の創建と伝えます。本尊は薬師如来坐像。花の寺としても知られ、毎年4月下旬~5月中旬にはぼたん祭り、10月下旬~11月上旬には菊薬師と小菊まつりが開かれます。

 

草谷寺(そうこくじ) 北山町

草谷寺(そうこくじ)の外観写真博物館近くの山間にひっそりとたたずむ山岳寺院で、役小角(役行者)の草創と伝えます。本尊の薬師如来坐像は平安時代の作で、重要文化財。また北側の境内に収蔵庫が建てられ、多数の仏像が安置されています。

 

生蓮寺(しょうれんじ) 二見7丁目

生蓮寺(しょうれんじ)の外観写真弘法大師が高野山へ向かう途中、立ち寄ったという故事から寄足山と号します。本尊の地蔵菩薩坐像は像高328cmあり、永禄13(1570)年の作。また胎内仏の地蔵菩薩立像は、平安時代後期の作です。

 

転法輪寺(てんぽうりんじ) 犬飼町

転法輪寺(てんぽうりんじ)の外観写真弘法大師がここで狩場明神と出遭い、二頭の犬に導かれて高野山へ至ったと伝えます。大師堂前の丹生・狩場明神の社殿は、江戸時代前期の様式が再現されました。境内には犬飼大師塚、犬飼明神塚の両古墳(6世紀)もあります。

 

宇智神社(うちじんじゃ) 今井4丁目

宇智神社(うちじんじゃ)の外観写真祭神は宇智大神。荒木神社とは、旧街道・国道24号線をはさんで南北に向き合います。旧郡名を冠する神社が鎮座することは、当地が古代の宇智郡の中心であった可能性をうかがわせます。東隣の安生寺は神宮寺です。

 

御霊神社(ごりょうじんじゃ) 霊安寺町

御霊神社(ごりょうじんじゃ)の外観写真    祭神は井上内親王・早良親王・他戸親王。御霊本宮とも呼ばれ、旧宇智郡一帯の御霊神社はここから分祀されたと伝えます。三間社流造の本殿は江戸時代の様式で県指定文化財。東方には、平安時代初期に霊安寺が建立されました。

 

御霊神社(ごりょうじんじゃ) 中之町

御霊神社(ごりょうじんじゃ)の外観写真

阿陀比売神社(あだひめじんじゃ) 原町

阿陀比売神社(あだひめじんじゃ)の外観写真延喜式内社。祭神は神吾田津姫(かむあたつひめ。コノハナサクヤヒメとも)・火闌降命(ほのすそりのみこと。海幸とも。隼人の始祖とされる)など。春日造の本殿と摂社の八阪神社社殿は江戸時代の様式で、市指定文化財です。

 

龍池神社(りゅうちじんじゃ) 三在町

龍池神社(りゅうちじんじゃ)の外観写真

西吉野地区

春日神社(かすがじんじゃ) 西吉野町向賀名生

春日神社(かすがじんじゃ)の外観写真春日造りの檜皮葺の、こじんまりとした神社ですが、格調高く重要文化財に指定されています。
細部には、室町時代末期の華麗な細工が施されています。

 

波宝神社(はほうじんじゃ) 西吉野町夜中

波宝神社(はほうじんじゃ)の外観写真銀峰山の頂上に鎮座する神功皇后所縁の神社で、毎年9月の第2日曜日には、西吉野の最大の秋祭り「岳まつり」でにぎわいます。荒御輿が繰り出し、普段は静かな山里もこの日は熱気に包まれます。

 

常覚寺(じょうかくじ) 西吉野町黒渕

常覚寺(じょうかくじ)の外観写真弘法大師の開創と伝えられ、古くから「ふげんさん」の名で親しまれています。本尊は普賢延命菩薩坐像(重文・秘仏)。同じく藤原時代の作である釈迦如来立像(重文)とともにおまつりされています。

 

堀家住宅 賀名生皇居跡(あのうこうきょあと) 西吉野町賀名生

賀名生皇居跡(あのうこうきょあと)の外観写真足利尊氏に京の都を追われ吉野へ向かう後醍醐天皇を手厚くもてなした「堀孫太郎信増」の邸宅はその後、後村上、長慶、後亀山天皇の皇居として南朝の歴史を刻んできました。梅林を背景にひっそりとした佇まいは、遠く都を離れた天皇の哀史を今も伝えています。

 

 

黒木御所跡(くろきごしょあと) 西吉野町黒渕

黒木御所跡(くろきごしょあと)の外観写真後醍醐天皇が吉野へ逃避される際に立ち寄られました。その後、京の都を追われた後村上天皇、長慶天皇の二帝が住まわれたと伝えられています。

 

北畠親房公墓(きたばたけちかふさこうぼ) 西吉野町賀名生

北畠親房公墓(きたばたけちかふさこうぼ)の外観写真南朝の中心となり、武将として勇壮に戦い続けた公家でしたが、その武勇むなしくこの地で病死しました。小高い山の木立につつまれて、ひっそりと墓石がたっています。

 

大塔地区

大塔宮遺跡碑(だいとうのみやいせきひ) 大塔町殿野 西教寺

大塔宮遺跡碑(だいとうのみやいせきひ)の外観写真父の後醍醐天皇が鎌倉幕府の倒幕を企て隠岐に流された後、大塔宮は逃避の旅の末、大塔の地で郷士戸野兵衛の助けを得て安堵の日々を送ることとなりました、やがて王政復古を願う親王(名を改め「大塔宮護良親王」となった)は、近隣の精鋭軍を従えて倒幕のため蜂起しました。
『大塔宮護良親王伝説』

 

戸野兵衛の墓(とのひょうえのはか) 大塔町殿野

戸野兵衛の墓(とのひょうえのはか)の外観写真大塔の地に逃れてきた大塔宮(大塔宮護良親王)を支えた郷士戸野兵衛の墓です。大塔宮の偉業の証は、今もなお戸野氏の子孫たちによって、大切に残されています。

 

竹原八朗の墓(たけはらはちろうのはか) 大塔町辻堂

竹原八朗の墓(たけはらはちろうのはか)の外観写真大塔宮(大塔宮護良親王)を支えた郷士戸野兵衛の伯父竹原八郎の墓です。

 

鶴屋治兵衛の碑(つるやじへえのひ) 大塔町天辻 維新歴史公園

鶴屋治兵衛の碑(つるやじへえのひ)の外観写真文久3年(1863年)維新回天を夢見た「天誅組」は、五條市から大塔村天辻へと本陣を移し、十津川郷士の助けを借りて戦いましたが、敗れ、離散していきました。当時、天誅組を助けた鶴屋治兵衛の碑が本陣跡にあります。

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更新日:2019年01月08日