井上内親王

 井上(いのえ)内親王は、奈良朝3代目で初の男性天皇、第45代聖武天皇の長女として、717年(養老元年)に生まれ、母は県犬養宿弥刀自(あがたいぬかいのすくねとじ)です。

 721年(養老5年)9月11日5歳の時、卜定(ぼくじょう、占い)により、斎王(いつきノみこ、伊勢神宮に出仕する未婚の皇女)に選ばれ、

 727年(神亀4年)9月3日11歳で伊勢神宮の斎宮に出仕し、19年間奉任して、

 746年(天平18年)内親王30歳は斎王を交代し、任を解かれて平城京へ戻り、数年後、白壁王(しらかべおう、天智天皇の孫、志貴皇子の第六子)58歳の妃になって、

 754年(天平勝宝6年)38歳の時、高齢出産で酒人(さかひとノ)内親王を生んで、

 761年(天平宝字5年)井上内親王は45歳で、第一子の他戸(おさべ)親王を産んで、

 770年(宝亀元年)8月4日異母妹の第48代稱徳天皇が崩御の後を受け、10月1日夫の白壁王62歳が、藤原百川(ももかわ)や藤原永手(ながて)の推挙によって、奈良朝最後の第49代光仁(こうにん)天皇に即位したので、11月6日井上内親王は54歳で皇后になり、翌年正月23日他戸親王11歳も皇太子になりましたが、光仁天皇は皇位継承問題が浮上した時、身の危険を感じて酒浸りになり、腑抜けを装い、光仁天皇の即位を拒んだ吉備真備は孤軍奮闘したけど叶わず、「長生の弊、この恥に遭う」と嘆き、政界を退きました。

 772年(宝亀3年)3月2日井上内親王は、密告により巫蠱大逆(ふこだいぎゃく、巫女に天皇を呪い殺す祈祷をさせること)の冤罪(えんざい)をきせられて、皇后の位を剥奪され、同年5月27日他戸親王も母に連座して皇太子の位を剥奪され、廃太子になったが、

 鎌倉時代初期に書かれた神武天皇から仁明天皇までの55代(弘文天皇を除いて、神功皇后、飯豊天皇を含む)1522年間の事跡を編年体で記した歴史書「水鏡」に、「后は呪詛をして、その呪物を井戸に入れさせ、御門(みかど、光仁天皇)の早死を願い、我が子東宮(他戸皇太子)を位につけようと願った」と書かれ、更に、

 773年(宝亀4年)10月19日井上内親王が光仁天皇の姉・難波(なにわ)内親王を厭魅(えんみ、呪いで天皇らを殺すこと)した罪(惑害した罪)により、大和国宇智郡(今の奈良県五條市)の没官(ぼっかん、官職を取り上げられた人)の館、今の五條市須恵(すえ)辺りに幽閉されたが、奈良から流される時、内親王は懐妊しており、五條市近内(ちかうち)町から西河内町、今井町を通って岡町を越える辺り、今の奈良カントリークラブ五条コースの辺りで男児を出産し、この男児が後に母と兄の怨みを晴らす為、雷神となった若宮で、彼の出生の地を産屋峰(うぶやみね)と呼んでいます。

 なお、五條市の辺りは藤原南家ゆかりの地だったから、おそらく退官した藤原一族の館へ預けられたものと思われますが、須恵一帯を下馬町と呼び、江戸時代ここを通行する者は、大名といえども馬から下りて通る習わしがあり、それを犯すと、落馬するか、禍を受けたと伝えられ、それもこれも井上内親王の幽居があったからで、その跡に井上院(いじょういん)が建立され、現在井上町と云う自治会があり、「聖神さん」と呼ぶ古い祠を祀り、境内で子供はいくら戯れて遊び、おしっこを漏らしても祟りはないけど、大人が放尿でもしようものなら病魔に冒されてしまいます。

 775年(宝亀6年)4月27日井上内親王は59歳で、他戸親王は15歳の若さで毒殺され、それを陰で策謀した者は女帝・称徳天皇の崩御後、弓削道鏡が失脚して、左遷されていた大宰帥(だざいのそち)が再び中央の参議に登任して政権を握り、時の権力者になった藤原百川朝臣(あそん)と云われ、公卿補任(くぎょうぶにん)は、「藤原百川の策諜であった」と断言し、本朝皇胤紹運録(ほんちょうこういんじょううんろく)は、二人が獄中で亡くなった後、龍(りゅう)になって祟って出たと記していますが、

 奈良時代は律令制が完成し中央集権政治が確立して、咲く花の匂うがごとく華やかな時代でしたが、陰では皇位、政権をめぐる政争が極めて激しい時代で、藤原百川が策を用いて、光仁天皇を立て、天皇のもう一人の妃・高野新笠(たかのノにいがさ、百済系帰化人の出)が生んだ山部親王(後の第50代桓武天皇、他戸親王の異母兄)を皇太子にする為、井上内親王と他戸親王が邪魔なので、親子に巫蠱(ふこ)、厭魅(えんみ)の罪を被せて流罪の後、暗殺したのが事の真相で、また、「水鏡」によると、井上内親王による祟りによって、

 776年(宝亀7年)9月、「20日ばかり夜ごと瓦や石、土くれ降りき。つとめて見しかば屋の上に降り積もれりき」とあり、そして、また、奈良朝も押し迫って末期に至り、

 777年(宝亀8年)「冬雨も降らずして世の中の井の水みな絶えて宇治川の水既(すで)に絶えなむとする事侍(はべ)りき。12月百川の夢に、鎧兜(よろいかぶと)を着たるもの百余人来たりて吾を求むとたびたび見えき。また、御門東宮(みかどとうぐう)の御夢にも、かように見えさせ給ひて諸国の国分寺に金剛般若(こんごうはんにゃ、金剛般若波羅蜜経のこと)を読ましめさせ給へりき」とあり、奈良の都でも、光仁天皇や藤原百川が悪夢に悩まされ、

 779年(宝亀10年)井上内親王は怨霊となって祟り、竜に変身して藤原百川48歳を蹴殺した事が、鎌倉時代の初期に成立した史論書「愚管抄(ぐかんしょう)」に書かれ、また、天変地異が起こるのは井上内親王の祟りと恐れられ、御霊を鎮める祈祷が行われ、12月28日井上内親王の墳墓を改葬して、御墓と称し、墓守一戸を置き、

 780年(宝亀11年)正月20日勅使(ちょくし、天皇の使い)従四位・壱志濃(いちしの)王らが再び奈良県五條市御山(みやま)町の御墓を改葬しました。

 781年(天応元年)4月3日光仁天皇が73歳で山部親王に譲位して、他戸親王の死で、棚から牡丹餅式に第50代桓武天皇が即位し、天皇の弟・早良親王(さわらしんのう、他戸親王の異母兄)が皇太子になって間もなく、784年(延暦3年)都が奈良の平城京から長岡京へ遷都(せんと)し、桓武天皇は呪われた平城京から逃げ出しましたが、

 785年(延暦4年)早良親王も造長岡京使・藤原種継(たねつぐ)暗殺事件に連座したかどで皇太子の位を剥奪され、長岡京の乙訓寺へ幽閉の後10日余り断食し、淡路へ流される途中淀川の畔で餓死して、後に安殿親王(あてしんのう、後の第51代平城天皇)が皇太子になるが、その母と高野新笠が病死し、安殿親王も病んでなかなか治らず、これらのことが早良親王の祟りと恐れられ、

 790年(延暦9年)桓武79天皇勅願で宇智郡一円を社領にもつ奈良県五條市霊安寺町の「御霊神社(御霊本宮)」が創建されたと、御霊神社神主藤井家伝来書が伝えているが、

 794年(延暦13年)都を長岡京から平安京へ遷都の後、800年(延暦19年)早良親王を崇道(すどう)天皇と追号し、墓が改葬され、7月19日同時に亡井上内親王も皇后の位が復され、吉野皇太后の称号を贈られて、墓を山陵(宇智陵、井上内親王陵)と称し、勅使従五位下葛井(ふじい)王が宇智郡まで下向して「霊安寺」を建立したが、

 805年(延暦24年)2月6日の「日本後紀」に記載されている「霊安寺」がその後、兵火にかかって焼失し、現在は寺名のみが霊安寺町として残っており、「続日本紀」によると、堂塔50余宇(棟)をもつ大寺院で、焼失後に「神宮寺」が社前左に建てられたけど、明治初年の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)で廃寺になって、「霊安寺」から伝えられた「神宮寺」の仏像、大般若経など全ての寺宝が「御霊神社」東隣にある井上山(いじょうざん)「満願寺」へ移され、

 また、同年2月京都でも僧150人に大般若経を読ましめ、「霊安寺」に一小倉を造って、稲30束と、調綿(ちょうめん)150斤、庸綿(ようめん)150斤を納め、井上皇后の御霊を慰めたので、これにてやっと、井上内親王の祟りも何とか鎮まって、

 863年(貞観5年)最初の御霊会が京都の神泉苑で営まれ、やがて都へ出入りする街道筋で疫病を封じ平穏を祈る御霊会がたびたび行われ、当初は陰惨な感じの祭事だったが、その内御霊も慰められたのか、民衆もまた平素の苦しい生活を忘れて楽しむ祭事になり、

 9世紀末あっちこっちに御霊神社が建立され、一般に御霊として祀られている八所大明神は井上内親王、他戸親王、崇道天皇(早良親王)、伊豫親王、藤原夫人、観察使、橘逸勢、文室宮田麿の八柱ですが、五條市霊安寺鎮座の御霊神社は、本社に井上内親王、他戸親王、早良親王の三柱を祀り、後一柱に丹生川(にうがわ)をへだてた御山(みやま)町の火雷神社(からいじんじゃ、若宮火雷神社)の火雷神(ほのいかずちノかみ、他戸親王の同母弟)を祀り、合わせて四所大明神と称しています。

 なお、若宮火雷神社(わかみやほのいかずちじんじゃ、若宮さん)の例祭は、昔は本社の例祭より数日早く行われていましたが、今は本社と同じ日で、毎年10月23日に執行され、神輿が御旅所になっている宇智陵まで渡御し、母子対面されますが、御渡の途中の道を100メートルほど上がった所に、兄の他戸(おさべ)親王の御陵があります。

 1428年(正長元年)御霊神社(御霊本宮)が土一揆に際し、守護・畠山氏によって焼かれ、1455年(康正元年)の棟札も残っているが、現在の本殿は県文化で、1637年(寛永14年)に再建され、三間社流造で、

 1472年(文明4年)五條市中之町に鎮座する御霊神社の本殿が創建され、こちらは現在国の重要文化財に指定され、

 13世紀に御霊(ごりょう)本宮から10ヶ所に御霊神社が分祀され、更に宇智郡各地に勧請されて御霊信仰が一円に広まり、現在五條市内に全部で23もの御霊神社があり、

 本社の秋祭は毎年10月下旬で、渡御神事があり、御旗、神具を先頭に神輿が進み、行列は100余名、御旅所では出店も出て賑わい、五條市内を御渡して、夕刻本社に還幸しますが、市内至る所にある個々の御霊神社でも祭事が行われ、子どもの山車(だし)も出て五條市内は祭り一色で賑わいます。

この記事に関するお問い合わせ先

産業環境部 観光振興課
電話:0747-22-4001
メールでのお問い合わせはこちら

更新日:2019年01月07日