南朝に想いをよせて

賀名生皇居跡の写真

南朝時代を偲ばせる賀名生の地

縄文・弥生時代から大和時代、平安時代、鎌倉時代…と、いくつもの時代を刻んできた我が国の歴史。
諸国に現れた時の権力者によって、壮大な歴史ロマンが繰り広げられてきました。
そのような中で、日本史上初めて半世紀以上もの動乱期となったのが、南北朝時代です。

 西暦1334年、建武の新政によって王政復古が目指されましたが、武家の思惑が交錯する中、公家政権の樹立は容易ではありませんでした。
 これを契機に政(まつりごと)は混乱し、後醍醐天皇の南朝、光明天皇の北朝が併立する南北朝の歴史の火蓋が切られました。
 賀名生梅林の近くには、南朝三帝の行宮(あんぐう)となったと伝えられている賀名生皇居跡があります。
 足利尊氏に追われた後醍醐天皇は、1336年、京都から吉野に皇居を移す途中、賀名生にある堀家に滞在。その後も賀名生は南朝のゆかり深い地となります。
1348年には後村上天皇が移り、1383年頃には後亀山天皇がこの行宮に入りました。
そのため、堀家には今も勅賜の日章旗をはじめ、一節切笛、駅鈴などが伝わっています。
また、賀名生皇居跡の藁葺門には、天誅組の参謀であった吉村寅太郎が書いた「賀名生皇居跡」の扁額が掲げられています。

 賀名生皇居跡を見下ろす小高い丘には、北畠親房の墳墓があります。親房は公家出身の武将で、南朝の中心人物として活躍。南朝と運命を共にし、1354年に没しています。
 ようやく南北朝が合一されたのは、尊氏の孫の義満が将軍になってからのこと。
 1392年、南朝の後亀山天皇は義満の呼びかけに応えて京都に還幸されました。

 それから600年有余年。今も賀名生の地は南北朝時代の面影を漂わせ、多くの人々がその足跡を訪ねています。

南朝ゆかりの品の写真

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更新日:2019年01月07日