五條十八景、関連人物の紹介

祇園南海

(ぎおん なんかい)(1676-1751)

延宝4(1676)年生、宝暦元(1751)年9月8日没。名は玩瑜、字は伯玉、通称は余一、号は南海、蓬莱、鉄冠道人、湘雲居など。和歌山藩医祇園順庵の長男。
 江戸で生まれ、元禄2(1689)年8月、新井白石・室鳩巣・雨森芳洲らが師事する木下順庵に入門する。父が没した翌元禄10(1697)年、その跡目を継ぎ、和歌山藩の儒者に200石の禄で任命され、和歌山に赴く。
 しかし、元禄13(1700)年、不行跡を理由に禄を召し上げあられて城下を追放され、長原村(和歌山県那賀郡貴志川町)に謫居を命じられた。宝永7(1710)年、藩主吉宗に赦されて城下に戻るまで習字の師匠として生計を立てた。
 正徳元(1711)年、20人扶持で儒者に復し、新井白石の推挙で朝鮮通信使の接待に公儀筆談を勤め、その功により翌2(1712)年、旧禄(200石)に復し、翌3(1713)年、藩校設立に際して主長に任命された。
 病死して和歌山の吹上妙法寺に葬られた。
 著作に『南海先生集』、『一夜百首』、『鍾情集』、『南海詩訣』、『南海詩法』、『詩学逢原』、『湘雲鑚語』などがある。

河尻甚五郎

(かわじり じんごろう)(1756or1759-1815)

名は春之。字は士文、甚五郎。肥後守。
旗本の出で、久保愛に師事し、作詩に優れ、また、器量が大きく、大志を抱きよく兵法書を研究した。「鬼甚五」と呼ばれるほど厳しく支配したが、一方で情け深く慈しんだので、領民は彼を畏れ敬った。
 はじめ信濃中野の代官となり、寛政7(1795)年8月9日、寛政の改革による諸政策の一環として五條に代官所が設置されるに伴い初代代官として着任した。この頃ロシアの蝦夷地来航があり、以後文化年間にかけて蝦夷地で取られた様々な対策の一つとして文化4(1807)年、蝦夷全島を幕府直轄地とするため松前氏を奥州に移し、函館奉行を松前奉行と改称して置いたが、その4人の奉行の内の一人に任命された。後に持弓頭となり、役高3000石の禄を賜った。
詩画帖『五條十八景』は、五條在任の記念として制作されたと考えられ、内容は文化年間を代表する文人墨客に依頼しており、非常に価値ある業績である。

三井丹丘

(みつい たんきゅう)(1728-?(1804以降)

名は建章、号は丹邱。
『古画備考二十九近世』によると、伊勢の絵師で、文化元(1804)年頃、詩画帖『五條十八景』の画を描いた。細密に描いているが、小品でやや絵葉書的であり、当時の五條周辺の実地がある程度描写されていることから、資料的な価値の方が大きい。

松平定信

(まつだいら さだのぶ)(1758-1829)

 宝暦8(1758)年生、文政12(1829)年没。幼名は賢丸。号は楽翁、花月翁、白河楽翁。越中守。田安宗武の7男、白河藩主松平定邦の養嗣子。
 天明の大飢饉の最中に家督を継ぎ、藩政の再建に成功した。その手腕をかわれ、天明8(1788)年、老中首座に就任、寛政の改革を断行した。祖父吉宗の享保の改革を模範とし、勤倹尚武を精神的支柱として棄捐令・囲米の制・風俗の匡正等を行う。また寛政異学の禁を施行、人足寄場を設置。一応の成果をあげたが、放漫財政の田沼時代のアンチテーゼとして出発した寛政の改革は、過度な禁止政策が目立ち、奢侈に慣れた武士・庶民の不評をかい、その厳格な緊縮政策を嫌われ、尊号一件を契機に老中職を辞した。幼少より学問を好み、『宇下人言』、『集古十種』、『花月草紙』等多くの著作をなした。

林 述斎

(はやし じゅっさい)(1768-1841)

 明和5(1768)年6月23日生、天保12(1841)年7月14日没。名は乗衡、衡、幼名は熊蔵。字は徳詮、公鑑。通称は大内記。号は述斎、蕉隠、蕉軒、天瀑、楽園逸民、墨水漁翁。美濃岩村藩主松平乗薀の子。
寛政5(1793)年、幕府の命により林家の養嗣子となり、諸大夫・大学頭となる。幕府の昌平坂学問所の主催者。
寛政の改革で学問所を整備する。幕府の様々な編纂事業を推進し、『徳川実紀』、『寛政重修諸家譜』などを監修した。
水野の三羽烏と呼ばれ、水野忠邦の股肱の腹臣として天保の改革に辣腕を振るった鳥居耀蔵は彼の子。

尾藤二洲

(びとう じしゅう)(1747-1813)

 延享4(1747)年10月8日生、文化10(1813)年没。名は孝肇。字は志尹。通称は伊予屋良佐(良助)。号は二洲、約山、静寄軒、流水斎。尾藤温洲の長男。
伊予川之江の人で、代々廻船業を営む。幼少時、船上で傷を負い、生涯脚が不自由となり、祖父の勧めで早くから句読を習う。宝暦10(1760)年、宇田川楊軒に学び、明和8(1770)年、大坂に遊学する。片山北海に入門し、頼春水・中井竹山・中井履軒らと交流する。大坂で塾を開き、学殖文才で知られた。寛政3(1791)年、幕府に登用され、昌平坂学問所儒者となり、200石を得る。

古賀精里

(こが せいり)(1750-1817)

 寛延3(1750)年10月20日生、文化14(1817)年5月3日没。姓は劉。名は樸。字は淳風。通称は弥助。号は精里。鍋島藩士古賀忠能の子。
肥前佐賀郡古賀村に生まれ、幼くして学に志し、成長して京都に遊学した。はじめ陽明学を学び、後に尾藤二洲・頼春水らと交わり朱子学に転じて信奉したが、崎門学派を嫌った。故郷に戻ってからは政議にも参与し、藩校弘道館が設けられた際、校制を定め教授を任命された。
寛政8(1796)年、禄200石で幕府の昌平坂学問所儒官となり、柴野栗山・尾藤二洲とともに寛政の三博士と称された。文化7(1810)年、幕府の命により対馬に赴き韓聘を受け、翌年8(1811)年、韓使に対馬に接し、韓人もその学徳に敬服した。
儒礼を以て大塚の地に葬られ、没後『精里文集抄』が刊行されたが、未刊のものも多い。主著に『四書集釈』がある。
渡来人の末裔で漢の高祖が祖と云われる。3男6女あり、長男は穀堂、次男は晋城、三男は庵。

柴野栗山

(しばの りつざん)(1736-1807)

 元文元(1736)年生、文化4(1807)年12月1日没。名は邦彦。通称は彦輔。号は栗山、古愚、古愚軒、五峰山房、石顛、三近堂。
讃岐国牟礼に生まれ、高松藩儒(藩主に仕える儒者)後藤芝山に学び、18歳で江戸に出て林家に入門した。明和4(1767)年、阿波藩儒となり、京都に住み皆川淇其らと交わった。
天明8(1788)年、松平定信に招かれ教授となり、寛政の三博士と称された。

市川米庵

(いちかわ べいあん)(1779-1858)

 安永8(1779)年9月16日生、安政5(1858)年7月18日没。名は三亥。字は孔陽。通称は小左衛門。号は米庵、亦顛、楽斎、百筆斎、金洞山人、小山林堂、金羽山人。市河寛斎の子。
寛政7(1795)年頃、林述斎の門に入り、柴野栗山に学び、寛政11(1799)年、書塾小山林堂を開いた。
文化8(1811)年、富山藩に仕え、後に加賀藩に仕えた。
書の門人は5000人、諸侯の門人も200人を越え、巻菱湖・貫名海屋とともに幕末三筆と称された。

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更新日:2019年01月07日