五條十八景、時代背景と関連年表

時代背景

 側用人兼老中の田沼意次(たぬま おきつぐ)の政策は、発展してきた商品生産・流通とそれが生み出す富に着目し、経済発展の成果を吸い上げて、幕府の財源とし、財政問題の解決を図ろうとした現実的で合理的なものでした。その結果、農村にも商品経済・貨幣経済が浸透し、都市には華やかな消費生活が生まれ、文化・芸術の多様な発展も見られましたが、役人の間では賄賂・縁故等不明朗な人事が横行し、士風を後退させました。また、商品経済・貨幣経済の発展は都市と農村の秩序を動揺させ、負担を転嫁された民衆の不満と反発は強まって一揆・打ちこわしが頻発し、飢饉や災害も重なって行き詰まり、深刻な危機を引き起こしました。
 そのため、失脚した田沼意次に代わり、藩政を立て直した名君・白河藩主松平定信が老中となり、田沼時代に進行した深刻な内外の危機に対応しながら、幕藩体制の立て直す「寛政の改革」に取り組みました。緊縮財政だけでなく、幕府の財政基盤である農村対策として、商品経済の浸透により不安定化し、凶作・飢饉により荒廃した農村の復興策が図られ、代官の大幅な交代と、同じ代官所に長期勤務させる体制を執り、領民から顕彰されたり神に祀られた名代官を多く排出しました。
 また、幕藩体制の動揺を打開するため、幕臣・藩士に対する基礎教育や高等教育の必要性を認識して朱子学を正学とし、官立の昌平坂学問所を設け、林大学頭(林述斉)がこれを主催、寛政の三博士を儒官に任命して、儒学の振興を図りました。
 そして、このような中央・地方の大きなうねりの中で、詩画帖『五條十八景』は誕生したのです。

関連年表

元禄2年 1689 『五條十八景詩』、祇園南海14歳 ※1
元禄3年 1690 『東都迎叔父憤恕庵公自南紀至』、祇園南海15歳
元禄4年 1691 『辛未立春』、祇園南海16歳
元禄5年 1692 『一夜百種』、祇園南海17歳
宝永元年 1704 『五條十八景詩』、祇園南海29歳 ※2
宝永3年 1706 『木門十四家詩集』、(新井白石)
宝永7年 1710 祇園南海、許されて和歌山城下に戻る
享保12年 1727 『亭雲集』、(新井白石)
宝暦元年 1751 祇園南海、死去
安永3年 1773 『五條十八景和歌』、(福井成胤)
寛政7年 1795 五條代官所設置
初代代官に川尻甚五郎就任
⇒在任期間 寛政7(1795)年~享保2(1802)年
寛政年間 久保愛の十八景詩
横谷友直の十八景詩
文化6年 1809 『五條十八景詩画帖』の跋文
河尻甚五郎、松前奉行から持弓頭へ昇進
嘉永6年 1653 『五條十八景詩』筆写(柴田長敬)
『五條十八題』扁額(小林道隆)

※1 元禄2年説

(イ)国会図書館蔵[五條十八景詩]〈元禄二年己巳九月下浣南海祇逸撰〉
(ロ)久保愛〈元禄之初、祇園正卿思之、探五條邊之勝而裁為十八絶〉
(ハ)柴田長敬[五條十八景詩]〈元禄二季己巳九月下浣〉
(ニ)小林道隆〈元禄二年己巳九月下院〉

※2 宝永元年説

(イ)[木門十四家詩集]〈宝永甲申仲秋作〉
(ロ)[春日神官福井成胤]〈寶永のころ、静亭村瀬君の宅において祇園南海先生述置れし五條の邊〉
(ハ)[五條十八景詩画帖]〈寶永元年甲申九月〉

関連情報

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更新日:2019年01月07日