地域に名を残した大塔宮護良親王

大塔宮馬上像


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大塔宮護良親王と大塔町 ◆
 


● 大塔宮護良親王について

  後醍醐天皇の皇子として建武中興の大業に活躍された大塔宮護良親王(だいとうのみやもりよし(もりなが)しんのう)については、太平記などに詳しく紹介されているところですが、護良親王が熊野へ隠遁されようとした折に当地域に差し掛かり、熊野から十津川奥にかけての豪族であった「竹原八朗」「戸野兵衛」の助けを得て建武の中興を実らせたことは、明治22年の旧大塔村誕生時、村名を大塔村としたほどに地域の誇りとするところです。
 虚構の多さから「太平記は史学に益なし」とする論調もありますが
、こうした歴史文学に書き綴られたことにより、当時この地域に住んでいた人々の気風や、一般社会から見た当地方に対する意識を垣間見ることができる点では貴重な資料と言えるでしょう。

 

● 鎌倉幕府に追われた親王

 護良親王は皇統第96代後醍醐天皇の皇子として延慶元年(1308年)に誕生され、11歳にして比叡山延暦寺に入り、20歳より同寺天台座主(第116,118世の2世)を務められ法名を尊雲と号されました。尊雲法親王はこの期間を比叡山の大塔に在されたことから、世に大塔宮と称されていました。

 この時代、北条氏の不臣著しいことから二度に渡り倒幕の計画を立てた後醍醐天皇でしたが、鎌倉幕府に謀事がもれたことで首謀者達が捕らえられ(元弘の変1331年)、後醍醐天皇は三種の神器を携えて南都に向かい、当時強大であった東大寺を主とした僧兵の武力を求めようとしましたが実らず、山城の金胎寺に移るものの安堵できず、より要害な笠木山城に籠もることとしました。
 護良親王は比叡山で天皇を待ちますが笠木山にいることを知って比叡山を離れ、一時笠木山で後醍醐天皇を助け、間も無く楠木正成が挙兵した赤坂城に入り、次いで奈良の般若寺に潜みました。

 やがて笠置山は足利高氏ら幕府援軍によって落城し、これを脱出した後醍醐天皇は赤坂城に向かう途中で捕らえられ、後に隠岐島へと流されます。

 一方護良親王は、幕府軍の手が般若寺に迫ったことを察知して般若寺を脱出し、熊野を目指して落ちられました。次いで楠木正成の赤坂城も落城しますが、正成も自害を装ってこの危機を脱出します。

 後醍醐天皇が六波羅探題によって幽閉されたことで、幕府は対立する持明院統から光厳天皇を即位させ、三種の神器も移されました。

 こうして討幕の芽は摘まれたかに見えたものの、熊野に落ちようとしていた護良親王はこの大塔の地に潜伏し、竹原八朗、戸野兵衛の助けを得て全国各地に討幕の呼びかけを発しながら機を窺っておられたのでした。

 太平記に見る般若寺以降の護良親王の行動は、まず般若寺ではお伴のいない夜明けに追手が迫ったことで、自害を覚悟しつつ三つある大般若経の空櫃の一つに身を隠して危機をやり過ごしたとされています。

 三つ有った空櫃の一つは蓋が開いていたものの、この空櫃の経巻の下に隠れたことが幸いし、追手は蓋の閉まった他の空櫃だけを確認して立ち去ったとする下りを紹介し、これを摩利支天のご加護であろうと特異な運命を印象付けています。

 太平記にはこうした文芸的演出が各所に見られるため、そのままを史実とは捕らえられませんが、全体の登場人物や勢力分布には概ね史実に基づいた記述が多いと見られるため、太平記に見る護良親王の足跡を以下に要約してみます。

 

● 太平記に見る大塔宮護良親王

 護良親王は光林房玄尊以下9名を従え、田舎山伏の熊野詣を装いながら和歌山県の由良から藤代、切目王子に至り、夢のお告げで「熊野三山ノ間ハ尚モ人ノ心不和ニシテ大儀成難シ、是ヨリ十津川ノ方ヘ御渡候テ時ノ至ンヲ御待候ヘカシ云々」と聞き、十津川をさして落ちていきます。

 一行は30余里に及ぶ人里も絶えた険しい山中を13日かけて十津川に至り、とある辻堂で疲れた身体を休め、道に迷った熊野参詣の山伏一行と称しながら村人から食料のまかないを受けます。

 この先を思案しつつ2~3日の滞在をするうち、光林房玄尊が「トアル在家ノ是ゾサモアル人ノ家ナルラント覚シキ所」を見かけ、子どもに家の主を聞いてみたところ、「是ハ竹原八朗入道ノ甥ニ、戸野兵衛殿ト申人ノ許ニテ候」と言うので、この人こそが世に弓の名手として知られる方の住まいに違いないと考え、家の中の様子をうかがいました。

 家中には物怪に憑かれた病人がいて「誰か効験の高い山伏がおられたら祈ってもらいたい」という家人の話し声が聞こえたことから、光林房玄尊は我らこそがその山伏であると語り、急いで大塔宮を呼んで祈祷を施しました。その効有って病気はたちまちに平癒したことから、家人である兵衛は一行にしばらくの滞在を許しました。

 十数日が経ったころ、兵衛は客殿に出て四方山話に続いて大塔宮が京都を出られ、熊野に向けて忍ばれている話を持ち出し、「哀此里ヘ御入候ヘカシ。所コソ分内ハ狭ク候ヘ共、四方皆険阻ニテ十里二十里ガ中ヘハ鳥モ翔リ難キ所ニテ候。其上人ノ心不偽、弓矢ヲ取事世ニ越タリ。サレバ平家ノ嫡孫惟盛ト申ケル人モ、我等ガ先祖ヲ憑テ此所ニ隠レ、遂ニ源氏ノ世ニ無恙候ケルトコソ承候ヘ。」と同情の念を示し、もしこの里に来られたなら、鹿瀬、蕪坂、湯浅、阿瀬川、小原、芋瀬、中津川、吉野十八郷の者でお助けしたいと勤皇の思いを打ち明けたことから、一行はついに自分たちこそが大塔宮の一団であることを明かすのです。

 兵衛は驚きつつも、まだ不審気に一同の顔を見つめたため、伴の者が頭巾を取って山伏には無い髷の跡を見せたところ、兵衛は驚いて額づき、無礼をわびて急遽黒木の御所を作り、四方の山々に関を設けて厳しく侵入者を監視するなど、大塔宮をお守りする態勢を整えました。

 兵衛から宮の話しを聞いた叔父の竹原八朗は、宮を自らの居館に迎え入れ、子の八三良とともに守護に当たります。こうしてようやく安堵された大塔宮は還俗せられ、名を護良と改めて八朗の娘を召し、凡そ半年の間ここに逗留されたと伝えられます。

 反撃の足がかりを得た護良親王は、竹原八朗らの協力により周囲の敵勢を征圧しつつ徐々に兵力を強め、全国に令旨を発して各地に勤皇の義軍を起こします。この後大塔宮は吉野金峯山寺を味方として愛染宝塔を城郭に構え、これを拠点として幕府軍と戦う態勢を整えました。

 護良親王の動きに呼応するように、すでに赤坂城を回復させていた楠木正成はさらに千早城を築城し幕府軍との戦いを繰り広げていましたが、吉野愛染宝塔は幕府軍との戦いで金峯山寺執行岩菊丸の反逆を受けて落城することになり、親王は高野山へと逃れかくまわれました。一方、全国で義軍の戦いが優勢となる中、後醍醐天皇は隠岐を脱出して出雲に渡り船上山へと入られました。

 やがて京都では六波羅探題が足利高氏をはじめ千草・赤松の軍に破れ、鎌倉では新田義貞に責められて北条高時が自害し、鎌倉幕府はついに滅ぶことになります。後醍醐天皇は京都に還幸され、しばらくして護良親王も入洛し征夷大将軍、兵部卿を任ぜられ、ここに建武新政の幕明けとなる大業を成就されたのでした。
 この時、足利高氏は後醍醐天皇の諱(いみな)「尊治」から一字を賜り「尊氏」と改名しますが、新政権に家臣を送るものの自身は征夷大将軍を求めて役職を持ちませんでした。

 やがて、護良親王は同じく征夷大将軍の座を求めていた尊氏との対立を深め、尊氏の力を恐れる父、後醍醐天皇の命によって捕らえられ、足利方に身柄を渡され鎌倉の東光寺に護送されてしまいます。
 幽閉されること九ヶ月、護良親王は、尊氏に敵対した北条時行が鎌倉に迫った折、敗走する尊氏の弟直義の命を受けた淵辺伊賀守義博の虐刃によって28歳の生涯を終えることになるのでした。

 その後、尊氏は時行を討ち建武政権に反乱を起こし、一時は北畠顕家に敗れ九州に逃れるものの、力を盛り返すと湊川の戦いで楠木正成を破って京に入り、北朝の光明天皇を立てて念願の征夷大将軍の地位を手にします。

 後醍醐天皇は三種の神器を奉じて吉野へと移り、南朝、北朝としての対立の時代を迎えますが、足利幕府の勢いは強く、後醍醐天皇の逝去によって事実上南北朝の時代は終焉を迎えることになりました。

 

とのひょうえ の はかたけはらはちろう の はか

戸野兵衛の墓(大塔町殿野)                       竹原八郎の墓(大塔町辻堂)

 

● 大塔宮の名を村名に

 こうした歴史の舞台となった大塔地域は、護良親王を助けた史実を郷土の誉れとし、明治22年の旧大塔村政発足時には、村名を大塔宮の呼称にちなみ「大塔村」としたのでした。ただし、「だいとうむら」としては宮に対して恐れ多いとの思いから、読みは「おおとうむら」としたのだと言われています。

 大塔宮を助けた十津川衆は、保元の乱(1156年)でも指矢三町、遠矢八町と武名をとどろかせた先祖を有し、地域に弓の名手が多かったことが保元物語ほか平家物語、義経記といった軍記物に記されており、加えて勤皇の志が高い地域であったとされています。

 こうした気風の土地柄であることや、大軍では進行しづらく、少数でもこれと敵対することを可能とする険しい地形の利があることは、やがて建武中興から下ること532年の文久3年(1863年)に天忠組(天誅組)動乱の舞台となったことにもつながっているようです。

 

おおとうのみや しせきひ

大塔宮護良親王 史跡 (西教寺)

 

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